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「一年中8月ジャーナリズム」と「未完の戦争」~戦没者遺骨を巡る常夏報道~


2023年8月19日

栗原 俊雄氏

毎日新聞社 学芸部記者

1967年生まれ。東京都出身。早稲田大学政治経済学部政治学科卒、同大学大学院修士課程修了(日本政治史)。
1996年に毎日新聞社へ入社。2020年から専門記者。日本近現代史、ことに戦後補償史がテーマ。
著書に『遺骨 戦役者三一〇万人の戦後史』『東京大空襲の戦後史』(以上岩波新書)『硫黄島に眠る戦役者:見捨てられた兵士たちの戦後史』(岩波新書)『特攻 戦争と日本人』(中公新書)『戦後補償裁判 民間人たちの終わらない「戦争」』(NHK出版新書)『戦争の教訓 偽政者は間違え、代償は庶民が払う』(実業之日本社)など。

未完の戦争

新聞やテレビの戦争報道は、8月15日の終戦と死者を悼むお盆の時期が重なっていることもあり8月に集中します。それ以外の季節にはあまりやらないので、業界では8月ジャーナリズムと言われています。

僕の8月ジャーナリズムには2つの違いがあります。一年中やっていることと、戦争を78年前に終わった昔話の物語としては報じないことです。78年前に戦闘は確かに終わりましたが、戦争の被害は終わっていません。原爆の被害者など、今も苦しんでいる人たちのことを思えば、戦闘の被害が終わっていないことは明らかです。他にも戦争PTSDなど、戦闘が終わったあとに発生する被害は数多くあります。戦争は昔話ではなく、今も被害は続いている。つまり戦争は未完なのです。

未完の戦争はたくさんあり、民間人の空襲被害者の補償の問題もその1つです。日本は軍人軍属と遺族に、補償や援護など累計60兆円を支出しています。それも当然必要ですが、民間人の空襲被害者への補償は0円です。この補償について、補償を受けていない民間人たちは2014年まで裁判で戦っていましたが、敗訴で終わっています。「軍人軍属は国が雇っていたから補償の義務があるが、民間人は雇っていなかったからしなくていい」、という国のロジックをそのまま裁判所は認めました。ただ、裁判所も原告の被害は認め、「あなたたちは確かに空襲で被害に遭った、補償するとすれば、それに見合う立法措置が必要だと」するものもありました。ですから、原告人たちは今も立法活動をしています。米粒1つ補償しない国と、あるいはわれわれの無関心な社会と、知ろうとしない、あるいは知らない日本社会と戦っているのです。今も戦争被害は終わっていません。

遺骨の問題もそうです。第二次世界大戦、いわゆる太平洋戦争と日中戦争では、厚生労働省の推計で日本人310万人が亡くなりました。うち240万人は硫黄島・沖縄を含む海外で亡くなりました。そのおよそ半分の遺骨を収容したと厚労省は言っています。つまり、今も半分近くが未収容・行方不明ということです。そのうちの1万体以上が硫黄島で、硫黄島では2万人以上の日本軍兵士、あるいは100人ほどの島民が軍族として残されて亡くなっています。硫黄島は東京都の一部です。東京都小笠原村、東京都心から1250キロ南で、自衛隊が常駐しています。少数ですが民間人もいて、これは自衛隊の基地をメンテナンスする建設会社の人たちです。

硫黄島上陸への道のり

僕は今まで4回硫黄島に行っていますが、初めて行ったのは2006年でした。クリント・イーストウッドの硫黄島を題材にした映画が公開されるのに合わせて、毎日新聞で特集記事を出すことになったので、当時、美術担当だった僕が任命されました。そのころから既に一年中8月ジャーナリズムやっていて、この記事の前に戦艦大和についての記事を出しました。1945年4月に沖縄に行く途中で撃沈され、乗っていた3332人のうち270人ほどしか生還していないのですが、23人を探し出し、20人に直接インタビューをして記事を出しました。そういった経緯もあり、担当を任されました。

硫黄島の映画とタイアップした記事は、硫黄島へ行かなくても書けます。写真を大きく使って、硫黄島の戦争を知っている識者の話を聞いて、映画のストーリーを少し書いて、年表などをつけて、できれば硫黄島で亡くなった兵士のご遺族か兵士ご本人を探し出せば、それなりに質の高い記事はできるのです。しかし、それらをすべて満たすだけでは僕は満足しません。硫黄島に行こうと思いました。

全島が自衛隊の基地である硫黄島には簡単に行けません。まずは会社に企画書を出しました。毎日新聞の社用機を硫黄島へ飛ばして取材をするという企画を立てたのです。正直なところ、この企画が通るとはあまり思っていませんでした。なぜなら、飛行機なんか飛ばさなくても記事が成り立つことは誰だってわかるからです。当然、人件費や燃料費などのコストもかかります。ですから、半分諦めの気持ちで出したのですが、なんと通ってしまったのです。

スキップする気持ちで当時の防衛庁がある東京の市ヶ谷に行って、全力で防衛庁を説得しました。しかし、どうしても首を縦に振らない。記事の締め切りもありますから、最後の交渉で最大のカードを切りました。クリント・イーストウッド監督が、硫黄島でロケをしていたことです。これは防衛庁との最後の交渉の直前に知りました。硫黄島は2万人以上の日本人兵士が亡くなっていて、その遺族ですら自由には行けない。墓参りにすら自由に行けません。戦前は1000人以上が豊かに平和に暮らしていましたが、その旧島民ですら帰島できない。しかし、アメリカ人の映画監督が商業映画を撮っている。これはおかしいのではないか。クリント監督が行けて、なぜ日本人が行けないのか。これを硫黄島に渡るカードにして交渉し、行けることになったのです。

行かなければわからなかったこと

メディアも首相の随行などで硫黄島に行くことがあります。行くところは決まっていて見学用の地下壕です。そこは立って歩けてライトがあって、安全に回れます。しかし僕が最初に行ったのは、日本軍兵士がこもっていた地下壕です。指揮官がいたところなどは少し広いですが、そこに至るまでは這って入って、冬なのに5分もいたら汗だくでした。硫黄の臭いがひどく、狭くて圧迫感があり、よく見ると地下壕の土塀につるはしの跡がたくさんある。当時は重機がないから、兵士がつるはしで地下壕総延長18キロを掘っていたのです。こんな環境で土を掘っていたなんて、過酷だっただろうと思います。1000人が豊かに暮らしていたと言いましたが、硫黄島には水源がないので、飲み水は雨水頼りです。スコールがたくさんあるので1000人ならなんとかなっていましたが、いきなり2万人が来たことで一気に水不足になりました。食料も同じです。水も食料も満足にない。アメーバ赤痢がはやっている。そんな環境でつるはしを振るっていたのです。

1944年の6月から兵士が増えてくるのですが、7月ごろから米軍の砲爆撃がひどくなってきました。米軍は潤沢な援軍がある一方、日本軍の援軍はゼロ。これは生きて帰れないと思ったはずです。この島はそういう島だということを、行かないとわからないことを肌で感じました。硫黄島のことをしっかり腰をつけて報道しなければいけないと思いました。

だから、1000人ほどしかいないと言われる硫黄島からの生還者のうち3人を探し出して、取材しました。3人のうちの1人は金井啓さんという方です。海軍の人で、地下壕の中で戦友が大勢亡くなり、自決の手助けまでしました。もう1人は大曲さんという方で、目の前で生死をさまよう兵士が水を飲みたがっていても、誰もあげる人がいない。食べ物を盗みあったりする。僕が絶句して「むごいですね」と言うと、大曲さんは「そう思いますか。じゃあ、あなた1週間、3日でもいいから、飲まず食わずの生活してみてくれ」と言いました。人間が、あそこでは獣になったんだ、戦場に聖人君子はいませんよと。大曲さんは、硫黄島で遺骨収容をするのは難しいだろう、だから追悼のために島に行ってほしいと言っていました。一方、金井さんは、せめてご遺骨だけでも戻してほしいと。僕は、そういう人がいる限り1体でも多くのご遺骨をご遺族の元に戻すための報道しようと思ったのです。

民主党政権の貢献

時は民主党政権。客観的に見て、当時の民主党政権は戦後補償について大変な貢献をしました。前の自民党政権での硫黄島からの遺骨収集は10年で1年当たり50体ぐらいでしたが、2009年に民主党政権になると、いきなり800体が収容されました。3年間で1200体ほど収集しています。なぜそれほどの成果が上がったか。日本政府も1968年に硫黄島が復帰してから遺骨収容を進めていましたが、基本的には日本側の資料に依存していました。しかし菅さんは発想を変えて、米軍側が長く占領していたのだからアメリカに遺骨を処理した資料があるはずだと考え、側近で衆議院議員の阿久津幸彦さんをアメリカの公文書館に派遣しました。すると、米軍が滑走路の西側に日本人の遺体を2000体埋葬したという資料を見つけ出し、それに基づいて掘ったところ膨大な遺骨が収容されたのです。

2010年12月、菅首相が硫黄島の現場に視察に行くことになりました。阿久津さんがそのとき、僕に一緒に行ってくれないかと言ってくれたのです。これが2回目の渡島です。2006年のときは、ご遺骨は1体も見ませんでしたが、2010年の現場は滑走路西側です。もう一面遺骨です。頭の中で1万体が残っているとはわかっていましたが、目の前で見るのとは全く違う。さらに驚いたのは、ご遺族が会ったことのないお父さんの骨を掘っていたことです。もう70代を超えているような高齢の遺族が掘っている。調べてみると、硫黄島だけではなく、戦後営々と行われてきた遺骨収容の多くは戦友や遺族が柱になっていました。国策として予算措置はしていましたが、いわばボランティアに任せていたのですから、客観的に見て全力でやっていたとは言い難い。だから離島とはいえ首都東京の一部なのに1万体以上が行方不明なんだ、こんなのでは駄目だと思い、もっと本腰を入れて、遺族が存命のうちに収容するべきだという記事を書くことにしました。それには遺骨を一緒に掘らなければいけないと思い、ご遺族と一緒に掘ると決めました。1つには、記事としての説得力が全然違うと思ったことと、書く資格を得たいと思ったからです。2012年、3度目の渡島にこぎつけました。遺骨収容団に参加したのです。

遺骨収容団への参加

1日目から膨大な遺骨が出てきました。数えきれないほどのご遺骨を自分の手で掘り出しました。その夜は、体は疲れ切っているのに興奮して眠れず、2日目はほとんど寝ていない状況で参加しました。東京都心の1250キロ南、しかも7月ですから非常に暑い状況です。でも長袖、長ズボン、ヘルメット着用です。米軍の駆逐艦の主砲や手榴弾などがたくさん出てくるのでヘルメットは必須ですし、さらにサソリやムカデがいるので長袖、長ズボンを着用します。その過酷な環境で70歳を過ぎた人たちが、お父さんの骨を探しているのです。

硫黄島は火山灰で黒土なのですが、若々しい緑が次々と生えています。そういった草の根を掘ると遺骨が見つかるのです。遺骨には必ず草の根が蜘蛛の巣のように絡みついている。つまり骨が栄養になっているのです。これは衝撃でした。横で掘っていたご遺族が、木の根に食われた骨を見て呟くように「かわいそうに、島では飢えていたのに、骨になって木に食われるのか」と言いました。それを聞いて、僕は言葉が出てこなかった。だからなお一層、遺骨収容をもっと進めないといけない、集めるだけじゃなくてご遺族に返さなければいけない、そういう記事を書くんだという意志を強めたのです。

進まないDNA鑑定

遺骨の身元を特定する唯一の科学技術はDNA鑑定です。主にご遺体の歯からDNAを取って遺族とおぼしき人に声をかけてマッチングさせる。今まで収容した128万体のうち、身元がわかっているのは1231体です。この程度しかありません。さらに、その1231体のうちの1200体はほとんどが旧ソ連のもので、硫黄島を含めた南方、その他が31体しかありません。

なぜこれほど少なく、さらに偏りがあるのか。原因は遺骨鑑定のDNA鑑定のシステムに大きな問題があることです。2003年にDNA鑑定が日本で始まりました。ただし、必ず鑑定するわけではありません。ご遺骨と一緒に身元がある程度推定できる遺品が出てきた場合のみ、あるいは埋葬記録があるもののみ鑑定します。しかし、集団埋葬地でそんなものはほとんど出てきません。だから鑑定そのものがされないのです。せっかく高齢の遺族が骨を掘り出してきても鑑定はされない。一方、ロシアはシベリア抑留の被害者がほとんどで、埋葬記録が比較的しっかりと残っているので鑑定が進んでいるのです。

条件が厳しすぎるので、遺品の有無に関わらず技術的に可能なものからはDNAを採取し、それをデータバンク化して遺族を探し出しマッチングすべきだと思います。とはいえ、2003年にはDNA鑑定の技術が確立していませんでしたし、ご遺骨の状態もあまりよくない。だから鑑定する政府としては、やはりもう1つ確証がほしいということはわかります。でも、10年、15年とやってデータが積み上がってきたのですから、遺品の条件は外しましょう。これではいつまで経っても無縁仏が増えるだけです。だから僕は繰り返し、そんな縛りは外すべきだと記事を書いています。

遺品縛りの緩和

ご遺族からの厳しすぎるという声もあって、政府は2016年に遺品縛りを一部解除しました。沖縄県です。沖縄南方地区は激戦地区だったのですが、沖縄の4地区に限って紙ベースの資料等の条件がそろえば、遺品や埋葬記録がなくても鑑定することになりました。残念ながら成果は出ませんでしたが、2017年にさらに10地区に広げました。これは、2016年に戦没者遺骨収集推進法という法律が議員立法で成立したためです。時限立法は9年間で、2019年度から2024年度、つまり戦後80年にかかる2025年までの9年間に集中的に力を入れてやるという法律を作りました。これはもちろんいい事業だと思いますが、順次、硫黄島なり、他の戦域に広げなければいけません。

2018年に、京都の東本願寺で講演を行いました。そのあいだに立ってくれたのが東本願寺の僧籍に入っている女性です。やり取りをする中で祖父が硫黄島で亡くなっていて、遺骨は全く持ってきていないというお話をされたのです。厚生労働省にDNA鑑定の申請をしたらいかがですかと言うと、彼女はすぐに申請しました。しかし、遺品が出ていないため断られました。僕は断られるだろうと思っていましたが、近藤さんの話を聞いたとき真っ先に、これを突破口にしようと思ったのです。沖縄でやっているのだから、硫黄島でもやらなければいけない。そのためには、沖縄と同じ条件を整えなければいけません。亡くなった近藤龍雄さんがどこの部隊にいたか、その部隊は硫黄島のどこに展開していたかを調べました。すると、硫黄島の大坂山地区というところに展開したことがわかったのです。さらに、厚労省が大坂山地区で遺骨をたくさん収容して、30体近くがDNA鑑定可能だということも突き止めました。独力で沖縄の10か所と同じ条件を整え、それを記事に突きつけました。

この記事は国会で2回取り上げられました。川田龍平議員と白眞勲さんが、当時の根本匠厚労大臣に、参議院の厚生労働委員会で僕の記事をもとに、遺品縛りを解除すべきではないかと言ってくれて、根本大臣はいずれも検討しますと言ったのです。僕は議場で傍聴していましたが、縛りを解くだろうと確信しました。そして2019年7月、硫黄島で遺品縛りが解除されました。すると2020年から2021年で2体の身元がわかったのです。2003年にDNA鑑定を始めて2019年までの16年間で身元が判明したのは2体しかなかったのに、縛りを解いた途端、1年で2体です。この16年間でどれだけご遺族が亡くなっているか。もっと早く解いておけば、もっと身元がわかったはずです。遅かったとはいえ、この縛りを解かせた意味は非常に大きいと思います。

辺野古基地建設の土砂問題

今、僕がやっている運動は、沖縄が舞台です。辺野古にアメリカ軍の基地を作ろうとしていますが、建設の途上で想定していたより地盤が柔らかいことがわかり、埋め立ての土砂がより必要になりました。その土砂の調達候補地に、日本政府は沖縄本島の南部を挙げました。沖縄本島南部は沖縄戦で日米合わせて20万人以上の人が亡くなった激戦地です。最後は糸満市の摩文仁の丘で日本軍の司令官が自決して、組織戦闘が1945年6月23日に終わりました。当然、ご遺骨は残っています。

沖縄本島の南部、糸満市内の壕の中、沖縄独特の言葉でガマと言うのですが、ガマの中でご遺骨が見つかっています。到底墓地とは思えないところです。別の壕でもご遺骨が出てくる。茶わんの欠片や日本軍の薬きょうなどと一緒に出てきます。明らかに戦没者の遺骨です。南部にたくさんあります。そのご遺骨が入っていることが確実な土砂を埋め立てに使いますか。新しい戦争が起きるかもしれない基地に使うのですか。

これをやめさせるために1つ考えたのは、あそこには米兵の遺骨も残っているはずだということです。だから白眞勲さんから、この問題について国会で何か質問したいと思っていると相談を受けたとき、南部には米兵の遺骨も残っているのではないですかと聞いてくださいとお願いしました。それが2021年6月3日の参議院の外交防衛委員会です。米兵の遺骨が残っているのではないですかと白さんが聞くと、政府側の答弁者はその可能性は否定できないと言いました。アメリカは戦没者の遺骨を遺族に戻すのは国の決まりごとなので、そのアメリカが自国の兵士の遺骨が眠っているであろう土砂を埋め立てに使うことを許可するかというと、それはできないだろうと思いました。これで南部の土砂を使うのは極めて困難になったと思っています。

DNA鑑定を呼びかけ方式へ

もう1つの運動は、せっかく集めた遺骨を遺族に返すために、決定的な政治的欠陥があります。今、厚生労働省はDNA鑑定可能な検体を1万2000体以上保管しています。硫黄島だけで658体が技術的にはDNA鑑定可能です。なのに、なぜあれほど少ないのか。1つは、DNA鑑定が遺族の手上げ方式だからです。DNA鑑定をやっていること自体を知らない遺族がたくさんいるのです。呼びかけ方式にしなければいけません。次の目標はそれです。タラワではそれを実験的にやりました。その結果が2体の身元判明です。なぜタラワはやって、他の地域でやらないか厚労省に聞くと、自治体に負荷がかかったからだと。もう70年以上が経っていますし、遺族を探し出すのは大変なことです。それはわかりますが、現にタラワでやったのだから、せめて硫黄島と沖縄で始めましょうと言っています。必ずこれを実現すべく、報道活動を続けていきます。今でも遺骨を探している人は大勢います。そういう人がいる限り、ご存命のうちに1体でも多く収容してご遺骨を返すことが当然の責務だと思います。

メディアが担う戦争抑止力

戦争はどれだけ被害が長く広く及ぶか、その具体例を積み上げて提示していくことが戦争の抑止力になると思います。戦争反対と100万回言うより、どれだけ被害者がいるか、どれだけ苦しんでいるか、それを具体的に提示していくことが戦争抑止力になる、新聞記者の務めであると思うのです。

質疑応答

「これから遺骨収集や戦争の記憶等も含めて、若い世代はどういうことができるのか、どうしていくことが望ましいのでしょうか。」

栗原氏 「1つは、遺骨収容の現場に参加することを強くお勧めします。自分の中で問題意識が身近になるのではないでしょうか。もう1つは、記者にも言えることですが、少なくなったとはいえ戦争体験者は今でもいます。特に戦災孤児などの話を今のうちに聞いて、自分の血肉にするべきだと思います。あと5年、10年と経てばできなくなりますから、インタビューすること、取材をすることを強く勧めます。それでわが事として継承する材料ができるのではないでしょうか。」

「今月、SNS上で遺骨収集の費用対効果の話で批判的にとれるような意見があり、それに対して栗原さんは反応していましたが、その後はどうなりましたか。」

栗原氏 「記者の目という欄に書きましたが、米山隆一さんという立憲民主党の議員がSNSで、1体を収容するのに予算ベースで1億数千万円かかっているのはどうなのかと言いました。米山議員は遺骨収容が無駄だと言っているわけではなく、過大な予算をかけるより現に苦しんでいる人がいるから、そちらを優先すべきではないかという議論です。僕は、現に苦しんでいる人ももちろんですが、ご遺骨を待っている遺族がたくさんいるのですから、どちらも生きている人の問題で、両方とも必要だと思います。1体集めるのに1億数千万円かかっているのに効果が乏しいのは、お金をかけなさすぎるからです。今30億円をかけていますが、30億円をかけてもDNA鑑定できるのは13機関しかない。年間のアベレージは増えて900件ぐらいになりましたが、1万3000体近くの遺骨を持っているのに年間1000体では13年かかります。もっとお金かけるべきなのです。ただし、前提としてこの事業はいずれゴールを迎えます。収容しても、返す相手がいなくなったら終焉を迎えるでしょう。しかし、子ども、孫の世代が残っているうちはやらなければいけませんし、現に持っている遺骨1万3000体はどうするのか。無駄な金を削って予算を確保してDNA鑑定の体制を整備すべきだと思います。お金をかけてなさすぎるから身元は判明しないし、遺骨が集まらないという立論で反応しました。」

「そもそも、なぜ日本人が硫黄島に行けないでしょうか。」

栗原氏 「まず1つは、全島が自衛隊の基地だからです。厚木基地にはわれわれ民間人が入れないのと同じ、ということです。ほかにも理由があり、行政としては基本的にはあまり来てほしくない。硫黄島は冷戦時代に核密約があり、米軍の核貯蔵施設があったので、あまり近づいてほしくないのです。それから今はひどい騒音を伴う訓練は硫黄島に集中しているので、旧島民に戻ってきてもらうと困る。水もないため、インフラの問題もあります。僕から見て、政府は認めないでしょうが、基本的には戻ってきてほしくないということです。しかし、そうであればこそわれわれメディアは行かなければいけません。メディアも含めて国民は、政府によって硫黄島への視線を遮断されています。硫黄島の現実をもっと伝えなければいけない。誰が骨を掘っているのか、どれだけ埋まっているのか、なぜ島民が帰れないのか、それをしっかり報道してほしい。だからメディアの人間こそ硫黄島に行ってほしいのです。硫黄島での遺骨収容が進まないのは国民が知らなさすぎるから。それはメディアがちゃんと報じないからです。もちろん僕もしっかり行って、目で見て引き続きお話ししたいと思います。」


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開催スケジュール SCHEDULE

「永遠の戦後」のために ~一年中、8月ジャーナリズム~

2025年8月30日 開催

「永遠の戦後」のために ~一年中、8月ジャーナリズム~

日時
2025年8月30日[開始時刻]15:00[開始時刻]14:30
会場
江﨑ビル9F江﨑ホール
WEB配信
WEB配信あり

2025年カリキュラム CURRICULUM

タイトル 講師

01/25《2025新春特別企画》
戦後80年 日本と世界
前田浩智 氏

02/15袴田事件の取材現場荒木涼子 氏

03/22大阪万博が始まる竹川正記 氏

04/19日本経済と財政を考える
インフレはどうなる、金利はどうなる
今沢真 氏

05/17オウム真理教事件から30年
事件は風化したのか
滝野隆浩 氏

06/14参議院選挙と世論調査
声なき声は聞こえるのか
平田祟浩 氏

タイトル 講師

07/12安倍元首相の銃撃事件後の政界は田中成之 氏

08/30戦後80年 考えるべき平和栗原俊雄 氏

09/20台湾問題の今鈴木玲子 氏

10/18毎年恒例!数独の世界 2025【数独協会】

11/15中東・イスラムを読み解く三木幸治 氏

12/20もういちど月へ
(アルテミス計画)
企画中