栗原俊雄

未完の戦争

栗原俊雄 氏

学芸部専門記者

1967年生まれ、東京都板橋区出身。早稲田大学政治経済学部政治学科卒、同大学院修士課程修了(日本政治史)。1996年入社。横浜支局などを経て2003年から学芸部。専門は日本近現代史、戦後補償史。元特攻隊員や空襲被害者、シベリア抑留者ら戦争体験者や遺族への聞き取りを15年続けている。
著書
『戦艦大和 生還者たちの証言から』『シベリア抑留 未完の悲劇』『勲章 知られざる素顔』『遺骨 戦没者三一〇万人の戦後史』(以上岩波新書)『シベリア抑留は「過去」なのか』 (岩波ブックレット)
『「昭和天皇実録」と戦争』(山川出版社)『特攻 戦争と日本人』(中公新書)『シベリア抑留 最期の帰還者』(角川新書)『戦後補償裁判』(NHK新書)
受賞歴
2009年 第3回疋田桂一郎賞(新聞労連主催) 2018年 第24回平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞(同基金主催) 著書に『戦艦大和』『特攻』『戦後補償裁判』『シベリア抑留 未完の悲劇』。

一年中「8月ジャーナリズム」

僕は、いわゆる平和報道といわれる戦争に関する報道をしています。新聞に限らず、テレビなどのメディアでは、戦争にまつわる記事や報道をたくさんしていますが、それらは、だいたい8月に集中しています。8月には原爆の日や8月15日があるからです。ほかに、6月23日の沖縄の地上戦が終わった日もありますが、集中的に記事が流れるのは、全国的に8月であり、それを踏まえて、一般的に戦争報道のことを「8月ジャーナリズム」と言ったりします。僕はその「8月ジャーナリズム」を2005年から、自覚的に、一年中やっています。しかし、僕がやっている一年中「8月ジャーナリズム」と、一般的な「8月ジャーナリズム」には、決定的な違いがあります。1つは文字通り、一年中やっていること。もう1つは、僕は一般的な「8月ジャーナリズム」の文法をやらない、ということです。「昔々、ひどい戦争がありました。これだけひどい被害もありました。だから、戦争はやってはいけません」、という1つの文法。それは、まったくその通りだと思うのですが、僕はそれだけに留まりません。

一般的な「8月ジャーナリズム」の報道は、質が変わってきています。また量は減少しています。その理由は2つあります。1つは、取材対象者が決定的に減っていること。僕が取材を始めた15年前は、軍隊の士官、たとえばや少尉、つまり、小隊や中隊レベル、500人、1,000人の命を預かる指揮官の話を聞くことができましたが、今は、そのような方を探し出すのが非常に困難です。そのため近年の主な取材対象は、取材対象者が子どものころに空襲を経験した人や、子どものころに引き揚げてきた人などになってきています。

たとえば、僕はこの15年間で、元特攻隊員、30人近くにインタビューをしました。特攻隊員には段階がいくつもあり、1段階は、ゼロ戦などの航空機に乗って、敵艦に体当たりすべく実際に飛び立った人。あるいは戦艦「大和」の特攻艦隊のように、連合艦隊の命令で沖縄に向かった人。つまり、本当に特攻に出動した人。2段階は、たとえば九州南部の基地に配属され、あと何日か経ったら飛び立つかもしれなかった人。3段階は、日本各地の飛行基地で特攻隊員に指名され、九州南部に出動することを待っていた人。「元特攻隊員」という人が登場する記事がありますが、僕は、この方はどの段階にいた人だろうというふうに見ます。

僕がインタビューをした30人は最初の1段階の人たちですから、2段階3段階の人とは、見える風景が違うということがよくわかっています。でも、取材対象者はどんどん減り、第1段階にいた30人もの特攻隊員に取材することはおそらく不可能でしょう。記事の質が変わるのは、必然です。
量が減っている原因は、この10年で、ニュースの量が爆発的に増えたことです。特にテレビです。時間は24時間しかありませんが、インターネットやSNSの発達に伴って報道されるニュースが増えたので、枠が足りなくなり、戦争報道などは削られてしまいます。

自称、常夏記者と未完の戦争。

4年前(2016年)の4月に、シベリア抑留の記事を書き、1面に大きく掲載されました。そのころすでに、一年中「8月ジャーナリズム」をやっていましたので、同僚が僕に、「一年中、紙面が常夏ですね」、と言ってきました。彼は僕のことを、「いつも季節外れなことをやっちゃってと」、若干、馬鹿にして言ったのだと思いますが、僕はそれがすごく気に入りました。「いいね、そうだよ、常夏じゃん」と思い、それ以来、常夏記者を自称しております。
一般の「8月ジャーナリズム」の、戦争はもうやってはいけないという記事はすごく大切です。しかし、自称常夏記者はそこに留まりません。僕は、戦争は未完だと思っています。戦闘は確かに、75年前の8月、日本の無残な敗北で終わりました。しかし、戦争はまだ終わっていないのです。

静岡大空襲、6月20日の深夜。B29の無差別爆撃ですね。その結果、この静岡市でも2,000人とも3,000人ともいわれる人が、焼夷弾をばらまかれて亡くなりました。そこで、僕が考えるのは、その2,000なり3,000の遺体はどうなったのか?荼毘に付されたのか?どこかのお寺に、懇ろに埋葬されたのか?あるいは、怪我をした被害者はどうなった?お父さんお母さんを亡くした孤児たちは、補償を受けただろうか?どうやって戦後を生き抜いたのだろうか?というようなことです。

国は、元軍人軍属や遺族に1952年から累計で60兆円の補償をしています。戦争で怪我をした人や、大黒柱であるお父さんや夫を亡くした方もいますから、補償はするべきです。しかし、民間人に対しては非常に冷淡です。国の言い分は、「国と民間人は雇用、被雇用関係になかったから補償の責任はない」ということです。海外からの引き揚げ者など、小出しに補償や援護をしてきましたが、元軍事らに比べれば微々たるものです。特に、民間人の空襲被害者に対してはびた一文支払いません。
納得がいかない民間人の人が、さんざん裁判をやっていますが、全部負けています。僕は東京大空襲や大阪大空襲で補償を受けていない人を何十人も取材しました。

東京大空襲、大阪大空襲の被害者たちは、それぞれ「軍人軍属と同じ人間として扱え、国として、しっかり誤りを認めろ」という裁判をしました。東京大空襲は2013年、最高裁で原告敗訴が確定しました。2014年には大阪大空襲の原告も敗訴が確定しています。ほんの6年前で、被害者たちが法廷闘争をしていのです。

敗訴後も、元原告たちは国に補償を求めて活動しています。戦争は未完なのです。裁判所の質の悪いところは、被害は認定しているところです。あなたたちが被害にあったことはわかった。訴えたい気持ちも心情もよくわかる。だけど、国に補償は命じない。法律を作るか作らないかは、国会が決めることだと言うのです。逃げですよね。被害だけ認定して、補償は宙に浮いたままという、ひどい話です。だからもう、訴訟はあきらめて、おじいさん、おばあさんは、国会議事堂の前で幟を立て、静かに訴えています。僕はそういう報道をしています。昔、ひどいことがあったではなく、今、闘っている人、今、苦しんでいる人の話を記事にするのです。

3月10日、東京大空襲のときには、10万人が亡くなったと言われています。「3月10日ジャーナリズム」の多くは、東京大空襲の被災者を探して証言を聞き、「ひどい目にあった」という記事に留まりますが、常夏記者はそこに留まりません。当時、東京都で1日に焼くことができたご遺体はわずか500体でした。一晩で10万人のご遺体は、どうなったのか?公園、寺、空き地、民家、許可など取らずに、そこらじゅうに埋めたのです。これをなんとかしろということで、48年度から50年度まで東京都が掘り起こしました。そのとき掘り起こされた遺骨は8万人分です。遺骨の数え方はとても難しく、厳密に基準を決めないといけません。頭なら頭、大腿骨なら大腿骨というふうに決めて数えないと、同じ人間の頭と大腿骨を、それぞれ数えたら2体となってしまいますね。基準を厳密に守らなければ、正確な収容数は分からない。しかし、掘り起こしに従事した人たちの回想などを読むと、実際はそれほど厳密にはできなかったのでは、実際に収容された人数はもっと少なかったのでは、とも思います。仮に、8万体だったとしても、まだ2万体は行方不明です。都に問い合わせても、どこに埋まっているかもわかりません。3月10日の東京大空襲以外の空襲も含めると、わかっているだけで、東京では12万人ほど亡くなっています。収容された遺骨は8万ですから、まだ、かなりの遺骨がどこかに埋まっています。戦争は未完なのです。

 先日、慶応大学の近くを、あの辺りは5月25日の空襲でひどい被害を受けたのですが、当時3歳だった男性と一緒に取材で歩きました。その方は、お母さんと1歳の弟を空襲で亡くし、遺骨は今も見つかっていません。70歳を過ぎてから、なんのつてもなく、昔からある商家やお店を訪ね歩いて手がかりを探しています。何度も言います。戦争は終わっていないのです。

為政者は間違い、そのツケは庶民に。

僕は日本を愛しており、外国の人が日本を悪く言うと気分がよくない、典型的な日本人です。でも、法人、国家としての日本を、大好きですとは言えません。民間人を切り捨て、軍人軍属だけ、差別的な扱いをしている法人としての国を、好きとは言えないのです。あの戦争を始めた人たちが、戦争をどうやって終わらせるつもりだったか、ご存じですか?

大本営政府連絡会議。大本営というのは軍部のことで、政府は、首相、外務大臣、大蔵大臣等の主要各部です。彼らは戦争をどうするかという会議を何度かやったのち、1941年11月15日の会議で、戦争をどうやって終わらせるかという終戦構想を作りました。それは、日本が同盟を結んでいる、ナチスドイツがイギリスをやっつけるだろう。すると、イギリスの同盟国のアメリカは戦意をなくすだろう。だから戦争は終わるだろうという構想でした。僕はこれを知ったとき、のけぞりました。当時のドイツは、陸軍力は強かったのですが、海軍力が非常に弱く、イギリスに上陸して補給を続けるのは難しかった。さらに、仮にドイツがイギリスをやっつけたとしても、アメリカがそれで戦意をなくすと、誰が保証したのですか。そんな終戦構想は、空想の上に願望を乗せた蜃気楼のようなものです。当時の為政者は、そんな構想で戦争を始めたのです。ここから学ぶべきことは、為政者というのは、我々庶民が想像もできないような、とんでもない間違いをするということです。

たとえば、東日本大震災の原発事故もそうです。地震考古学などさまざまな専門家が、大規模な地震、津波が再発する可能性をしていました。ところが東電が事実上無視して十分な対策をとらず、原発への依存を進めてきた政府も有効な対策をとりませんでした。とんでもない間違いです。そして、質が悪いのは、間違った為政者は責任を取りません。勝てるわけのない戦争を始めた東条英機内閣の閣僚は、1人として戦地に行っていません。戦死したのは、駆り出された庶民、空襲で晒された庶民です。ツケは我々に回ってくるのです。それがあの戦争から学ぶべき歴史だと思います。近代戦の後始末は、永遠に終わりません。庶民にツケが回ったままです。

硫黄島に行きたい、すっぽんのように食いついてあきらめない。

未完の戦後問題というのは、たくさんありますが、今日はそのなかから、硫黄島の戦没者遺骨のお話をします。硫黄島は、東京都から、1,250km南。マリアナ諸島、サイパン、グアムとの中間地点にあります。サイパン、グアムには、B29の基地があり、B29はそこから、片道2,500km飛び、日本本土を爆撃しました。B29は新しい飛行機で壊れることが多かったので、中間地点がほしかった。かつ、長距離爆撃機につける護衛機は、航続距離が爆撃機より短く、往復5,000kmを飛ぶことができなかったので、米軍は護衛機のために、どうしても領土がほしかった。米軍がほしいということは、当然、日本は取られちゃいけないわけですね。だから、1945年2月から3月にかけて、およそ40日間、硫黄島で激烈な戦闘がありました。そして、そこにいた日本人、およそ2万2,000人のうち、2万人が亡くなり、結局、占領されました。それで、日本の敗北が確実になったのです。

その後も米軍は硫黄島に居座っていましたが、1968年、ようやく日本に返ってきました。そこから日本の遺骨収容が始まり、現在までに、およそ1万体のご遺骨を収容したと厚生労働省が発表しています。実際は、1万体も収容できていないと思いますが、1万体を収容したと信じるとしても、まだ1万体も収容されていないのです。僕は大学と大学院で日本近現代史を専攻しており、硫黄島についての知識も若干ありました。ですから、硫黄島は東京都であり、その気になればもっと収容できるはずなのに、どうしてしないのかと、以前から疑問に思っていました。そのこともあって、ずっと、硫黄島に行きたいと思っていました。

2006年、クリント・イーストウッドの映画が話題を呼び、毎日新聞でも、その映画に便乗して、読者の関心に応える記事を作ろうということになりました。これが、2006年12月8日に載った記事です。クリント・イーストウッドの映画が翌日から全国公開ということで、それに合わせて、硫黄島特集を1面、バーンと使ってやりました。このとき、僕は映画担当ではありませんでしたが、すでに、戦艦「大和」の乗組員のインタビュー、特攻隊員のインタビューなどをやっていましたから、大阪本社の上司が、あいつはこれに向いているはずだということで指名してくれました。

このような、映画に便乗した記事には、1つの決まった手法があり、本来、そんなに手間をかけなくても作ることができます。たとえば、映画のあらすじを書き、映画関係者や、硫黄島の戦闘に詳しい学者・研究者にインタビューをし、そこに、当時の新聞記事を載せれば、一丁あがりです。さらに、生き残った1,000人の日本軍兵士のなかから1人でも探し出してインタビューできれば、商品として完全です。

硫黄島に行かなくても記事はできたでしょう。でも僕は硫黄島に行きたかったので、無理とは思いつつも、この記事のために硫黄島に行きますという企画書を会社に出しました。今回がだめでも、9年後、戦後70年のときに行ければいいぐらいの気持ちでした。それが、なんと、いいんじゃない?という感じで通ってしまいました。あとで知ったところによると、僕がお願いした上司のその上の上司が、当時、大阪本社の編集局長で、戦争問題に非常に関心がある方だったようです。こういうのは巡り合わせですね。
会社で企画が通ったので、次は、防衛庁に許可を取りに行くため、僕は、東京新宿の市谷まで、勇んで行きました。でもそこで、非常識なことを言うね、行けるわけがないでしょう、と断られました。冷静に考えれば、硫黄島は自衛隊の基地ですから、簡単に行けるわけがありません。でも僕は諦めませんでした。

「クリント・イーストウッドの映画のおかげで、戦争に関心を持たない若い層が関心を持っている。これは戦争を知ってもらういい機会です。記事化するためには現地に行ったほうが、圧倒的に訴求力があります。お願いします」、と本気で説得にかかりました。さらに、僕がこれまで取材してきた戦争関連の資料も見せ、一生懸命に交渉しました。それでも駄目でしたが、僕は諦めませんでした。すっぽんのように食いついて、あらゆる選択肢、あらゆる手段を尽くしました。人間、本気になると知恵が湧くもので、記者になって25年、僕が今まで一番気合入れたのがこのときでした。

交渉を進めるための取材をしていくなかで、クリント氏は硫黄島でロケをしたという重要な情報を得ることができました。皆さん、この重要性がおわかりですか? 硫黄島にはご遺族や、硫黄島から生き残って帰ってきた人ですら、自由に行けないのに、なぜ、アメリカ人が、そこで映画を撮れたのですか? それに私は日本人。なぜ、アメリカ人が行けて、俺が行けないのか。を聞いた途端、疑問と怒りが湧いてきました。

4回目ぐらいの防衛庁との交渉で、僕はこのカードを切りました。紙面は12月8日と決まっていましたから、硫黄島に行くとしたら、それが最後のチャンスでした。ところで、クリント・イーストウッドは硫黄島でロケをしたんですよね?と切り出すと、相手の顔色が変わりました。「いや、あれは外務省が」、などと言い出して、しどろもどろになりました。結局、行けることになったのです。ほかにもたくさんのカードを切り、援護射撃もあった結果、そうなったとは思いますが、最終的に、最も効いたのはこのカードだったと思っています。

最近、他社他局でも、戦後補償について取り上げていますから、毎日新聞のあいつは行けたのに、クリント・イーストウッドはロケをしたのに、なぜ、俺らは行けないんだ?と、どんどん声を上げ、みんな硫黄島に行って、現実をバンバン報道してほしいです。たとえばNHKなどに行ってもらい、報道してもらいたいですね。

硫黄島の事実、遺骨収容は誰が。

そのような経緯で2006年、初めて硫黄島に行きました。百聞は一見にしかずと言いますが、まさにそうでした。硫黄島では、日本軍が総延長18kmの地下壕を作って籠り、米軍の猛烈な空爆や艦砲射撃を凌いで戦い、奇跡的な善戦をしました。これは、第二次世界大戦の戦史を知っている人なら誰でも知っていることですが、実際に地下壕に入ってみると、とにかく暑い。僕が行ったのは12月でしたが、ワイシャツ1枚で入っても、あっという間に汗が噴き出てきました。東京から1,250km南で、かつ全体が火山島ですから、すごく暑いのです。この写真は2012年に行ったときのものですが、見学向けにすごく状態がよく、ちょっと屈めば歩けるくらいの危険のない地下壕です。2006年に行ったときの地下壕は、匍匐前進で進み、今、岩盤が崩れてきたらどうなっちゃうんだというような感じのところでした。

しかも、つるはしを使い人力で掘っただろう跡がたくさんありました。あのサウナみたいな暑さのなか、人力で掘ったなんて、あまりにも過酷だと思いました。昔も今も硫黄島には井戸がなく、雨水しかありません。75年前、水の補給はほとんどなく、そんな状態であれをやるのは、肉体的にも、精神的にもかなりつらかったでしょう。つらい仕事もゴールが見えていれば頑張れますよね。でも、硫黄島にはゴールがない。米軍がいつ上陸してくるかもわからず、戦闘が始まったら、いつ終わるかわからない。相手は補給がいくらでもあり、攻めたい放題なのに、こっちは補給ゼロ。死を覚悟したでしょう。現場に行って、初めてそのつらさが想像できました。行かないとわからない想像力というものが働くんですね。

取材を続けていくなかで、生き残った1,000人のうちの3人を探し出し、お話を聞きました。3人の方々が異口同音におっしゃっていたのは、戦友の遺骨がまだ埋まっているから、1体でも多く、1日も早く帰したいということでした。その3人のなかには、目の前で戦友を亡くした方もおり、水をほしがっていたが飲ませてやれなかったと、心の傷を抱えておられました。硫黄島について知るに連れ、まだ、1万体残っているという事実が、僕のなかで、紙の上の話ではなく立体的になりました。硫黄島は東京です。自衛隊員が数百人常駐しています。だから、なんとかしようという記事を書きました。

2回目は2010年。当時は、民主党の菅直人氏が首相でした。彼は、野党時代から硫黄島の遺骨収容問題に力を入れていましたから、彼が首相になったとき、硫黄島の遺骨収容数は飛躍的に上がり、それまで一年間平均で60体ほどだったところから、2010年度だかで800体以上を収容しました。彼はアメリカに資料があるはずだと、側近をアメリカの法務省に派遣しました。その方は今、立憲民主党にいる阿久津幸彦氏で、阿久津氏はここに2,000体の日本人を埋めたという資料をみつけました。そして、そこを掘ってみたらたくさんの遺骨がみつかったのです。

その成果を確認するために、菅首相が現場に行くことになりました。首相番の記者たちも一緒に行けることになりましたが、僕は学芸部にいたので、関係ありませんでした。しかしそのとき、阿久津氏が電話をくれて、あんたみたいに熱心にこの問題を取材している人に、ぜひ一緒に行ってほしいと言ってくれたのです。これは本当に嬉しかった。記者冥利に尽きました。それは、出発数日前のことでした。 
 
そのように、2回目の硫黄島行きは急に決まったので、僕は詳細を知らされておらず、到着してから何をするかも知りませんでした。当日、C130輸送機を降りて、バスで行った現場がここでした。これは人間の骨です。こんなに骨を見る機会は滅多にないですから、もう、あまりの衝撃で、呆然と立ち尽くしてしまいました。すると傍らでご遺骨をあげている方が小さな声で、合掌してくださいますかとおっしゃり、僕は我に返りました。情けない話です。僕はこういう取材をずっとしてきて、戦没者を悼む気持ちを人並みには持っているつもりでしたが、そのときは、本当に絶句してしまったのです。

このときショックだったのは、この遺骨を誰が掘っているかということです。ここは不発弾や米軍の駆逐艦の主砲などがワラワラと出てくるような危険な場所です。僕はそれまで、収容作業というのは国の担当者、厚労省、あるいは自衛隊の人がやっているのだろうと、漠然と思っていました。しかし、実際はご遺族です。亡くなったお父さんのお骨を、生前、ほとんど会ったこともない、ほとんど記憶もない子どもたちが掘っているのです。そのことに対して、美しい家族愛だ、肉親の絆だという考え方もあると思いますが、僕はじっくり考えて、それはあまりにも酷い、国として無責任だというふうに感じました。勿論、遺族の方たちは、自分の意志、強い気持ちで行っていますから、それは保つべきです。しかし、それとは別に、なぜ自衛隊が、なぜ厚生労働省がやらないのか。これは主客逆転じゃないのかと思いました。そして、俺はこの現実を書き続けよう、そして自分もこの現場で、この人たちと同じ目線で、同じ汗をかき、遺骨を掘ろうと決めました。

過酷な遺骨収容、全部お父さん。

3回目は2012年で、遺骨の収容に参加しました。日本も捨てたものじゃないなと思ったのは、結構、若い人が手を挙げて参加しているということです。しかし、島には水がありませんし、船着き場もなく、受け入れられる人数も限られていて、簡単には参加できない狭き門でした。かつ、僕はメディアの人間ですから、防衛省も厚労省もいい顔をしませんでした。ハードルは結構高かったのですが、あらゆるカードを切って、自分の切り開いたコネを使い、勿論、毎日新聞の記者だと明かし、この現実を記事にして伝えることを前提に受け入れてもらいました。

1年半前と同じ現場に行ったのですが、まだいっぱい、いっぱい見つかりました。これは、綺麗に強く見える大腿骨ですが、ちょっと力を入れると、ぽろぽろっと、きな粉みたいにくずれます。火山灰の酸性の土に70年間も埋まっていると、こうなるのです。このときは7月でとても暑かったです。この方たちは、みんなご遺族です。この、ぼうっと立っているのは僕です。前日にいっぱい骨を掘り出し、ショック状態で最初の晩は全然眠れませんでした。ほとんど寝ていない状態で2日目の朝を迎え、暑くて、このままだと倒れるなというところで、スコールが来て、30分ぐらい休んだので助かりました。戦死者の骨を掘り出すというのは、結構なインパクトがあるのです。

ここは火山灰ですから、本来、木々がこんなに生えているわけがないのですが、たくさん生えています。この草の周辺を掘ると確実にご遺骨が見つかります。僕がみつけた立派な大腿骨は、まんなかを木の枝が貫通していました。木の根っこが絡まっているものもたくさんありました。つまり、ご遺体を栄養にして草木が育っているということです。そのとき、僕の横にいた、僕に掘り方のレッスンをしてくれた師匠が、彼はお父さんを硫黄島で亡くしているのですが、「可哀想に、島では飢えていただろうに、亡くなってからは、木に食われるのか」とつぶやきました。ガーンって感じですよね。これが戦後70年の東京です。驚きと怒りが増幅しました。このとき、完全に常夏記者を自覚し、もう俺はこの問題でやっていくと決めたのです。

この問題は政治と密接に関係しています。自衛隊員が掘れないのはなぜでしょうか。隊員に話を聞くと、彼らの先輩なわけですから、ご遺骨を掘りたいという気持ちを持っている人もいます。では、なぜ、隊務として組織を挙げてできないのかと問うと、当局は自衛隊法に書いていないからと答えます。でも、掘ってはいけないと書いてあるわけではありませんから、解釈次第ではできると思います。実際、現場での爆発物処理など協力をしています。百歩譲って自衛隊法に問題があるなら、法律を変えればいいのです。結局、戦後補償の問題というのは政治の問題です。民間人を切り捨てたのも政治の責任です。司法は被害を認め、立法で解決すべきものだと言っているのに、立法がそれに応えないというのは、すべて政治の責任です。

硫黄島で一生懸命に遺骨を掘って収容したあと、身元はどれぐらいわかると思いますか?今まで硫黄島では1万体収容されたことになっていますが、身元がわかったのは、1万分の2です。5,000人に1人しかわからないのです。沖縄は18万体収容して5です。つまり0.00002%。ほとんどはわからないままです。今申し上げた7名は、全部DNA鑑定で判明しました。日本では、基本的には歯からDNAを採って、遺族を探し出し、ご遺族からDNAを採取して突き合せます。しかし、見つかった遺骨すべてからDNAを採取する訳ではありません。遺骨と一緒に、身元につながる遺品や埋葬記録などが確認できた場合のみ、鑑定を行うという原則がありました。

しかし、そんな遺品が見つかることはほとんどありません。だから、遺族たちが苦労して遺骨を収容しても、鑑定するなされないケースがほとんどなのです。だから硫黄島のような激戦地で、遺族たちが苦労して遺骨を掘り起こしても、身元が分かるのは極めてまれです。
僕はそのことを知っていたので、取材者として、「こんなに頑張って遺骨を収容しても、それがあなたのお父さんかどうかわからないということをどう思いますか?」と聞きたかった。それを聞くことで、戦後補償のいい加減さ、戦争の悲惨さ、遺族の気持ちが一体的になってくると思ったからです。でも、聞けませんでした。あまりにも残酷すぎて。

このお祈りしている女性は、広島から来た4回目の方で、お父さんの記憶はほとんどありません。その方が、僕の気持ちを察したのか、「出てきたご遺骨が誰の骨かはわかりませんが、出てきた骨はみんな自分のお父さんだと思います」とおっしゃいました。僕は打ちのめされました。全部自分のお父さんの骨。あの過酷な環境で、危険な毒虫から守るため、真夏でも長袖長ズボンを着て、爆発物があって危険なため、ヘルメットをかぶる。あの重装備をするだけでもつらいのに、お骨の身元はわからないけど、全部お父さんの骨だと思うって。それを聞いたときは、本当にショックでしたが、家族、肉親の気持ちとは、そういうものかもしれません。そう思う反面、やはり怒りのベクトルが湧いてくるのです。つまり、ゴールがないのです。残りの1万体が全部収容されることは、民間人の善意に預けている限り、絶対に無理です。永遠に掘り続けるしかない。ゴールのないマラソンです。日本は国として、もっとコストを投入するとか、DNA鑑定の体制を拡充するとか、もっともっとできることがあるだろう?と怒りが湧いてくるのです。

未完の戦争の実態、戦争抑止力へ。

戦没者遺骨は、まだ100万体以上が収容されていません。その遺骨収容のための年間の予算は、いくらだと思いますか?因みに、日本国はアメリカ製の1機100億円以上する戦闘機F-35を100機買うそうです。それに対して、遺骨収容は、厚労省が外国の資料館に行き、現地調査をし、遺骨を掘って持ち帰り、DNA鑑定をして、遺族に声をかける、全部引っくるめて年間30億です。全然足りないです。国家の体制の問題です。こういう例は、ほかにもたくさんあります。どうして僕が常夏記者をやっているのか、「8月ジャーナリズム」と何が違うのかが、わかっていただけたでしょうか?戦争は未完です。一度起こしたら、永遠に清算されず、為政者がミスをしたら、そのツケは我々庶民に回ってくるのです。

最後に1つだけ。よく、戦争を始めた政治家を選んだ国民にも責任があるという議論がありますね。一見、説得力がありますが、このことは、現実的にイデオロギーを排して考えていただきたい。戦争を始めた当時の東条英機内閣に限定して言うなら、東条英機内閣で、国民に選ばれた衆議院議員は1人もいません。首相、東条英機は軍官僚。その前に、戦争をやるレールを引いた近衛秀麿は貴族政治家。当時の国策は国民に選ばれてない軍官僚や宮廷政治家、官僚が決めていたのです。

百万歩譲って、国会議員を選んだ国民に責任があるとしても、当時、選挙権があったのは、25歳以上の男性だけです。ほとんどの国民は国策決定に関われなかったのです。戦争責任など1ミリもありません。決定的に為政者が悪いのです。そう言うと、新聞にも戦争責任があると言われます。全くその通り。毎日新聞も、ガンガン戦意を煽っていましたから、とんでもない責任があります。僕だって当時記者だったら、そういう記事を書いたでしょう。当時は、今と違って言論の自由がありませんでしたから、戦争に勝てるわけがないというような記事は書けませんでした。それでも、新聞に責任はあります。だから、そのときの責任として、今、責任のあることをしっかり伝えないといけないのです。でも、それをもって為政者の責任と相殺することはできないと僕は思っています。為政者の責任は、その後輩である日本国の為政者たちが落とし前をつけないといけないでしょう。

今は、昔と違って、首相を選ぶのは我々です。僕らの投票行動が、政権を形成させるのです。だから政権がミスをして国民に被害が及んだら、それは国民の責任でもあるのです。
そして、国策決定者はときにとんでもない間違いをして、そのツケは永遠に我々に回ってきて清算できない。あの戦争から学ぶべきことは、そういうことです。そういう教訓をもって、私たちは現代の政治に関わっていくべきだと思います。
この未完の戦争責任という現実、実態をお伝えし続けることが、戦争抑止力になると僕は思っています。庶民がどれだけ長く苦しんだかを知ることこそが、もう戦争はこりごりだという知識に繋がると思うのです。

質疑応答

男性A「靖国参拝について、どう思いますか。」
栗原氏「僕は10年以上、毎年必ず8月15日に靖国に行っています。今年も行きました。戦没者を悼む気持ちは人に劣らず持っているつもりですが、靖国ではすべての祭神に手を合わせることはしません。理由は2つあり、1つは、戦争指導者を奉っているから。それは、東京裁判でA級とかB級とかされた人ではなく、僕から見た戦犯たちが奉られているからです。もう1つは、遺族が奉るのをやめてくれと言っている人まで奉っているからです。」

男性B「受忍論について、どう思いますか?」
栗原氏「受忍論というのは、戦争でみんな酷い目に遭ったから、我慢しなさいというものですが、僕はとんでもない差別だと思っています。戦争で被害を負ったのは民間人も一緒ですから、直ちに補償すべきです。1960年代・70年代は受忍でばっさり切っていましたが、最近の裁判では、さすがに、あまり持ち出さないですね。ただ、解決と救済は日本でやってくださいといって、宙に浮いているだけです。受忍論については、『戦争、戦後補償裁判』という僕の本がNHK新書から出ており、Amazonで1円で買えますので、ぜひ、読んでいただければ有り難いです。この国の文法ですから、原発で日本中が被害に遭ったら、たぶんまた受忍論が出てくるでしょうね。」

男性B「これからの若い人たちに、戦争はやっちゃ駄目だということを金額で出したらどうかと思っています。戦争のためにいくら使い、補償はいくら。うちは兄弟が戦災で死んで、補償はないのですが、そういう人にも補償したとしたら、いくら掛かるかというような金額は試算していますか?」
栗原氏「考えたことがありませんでしたが、確かにそうですね。日本は、国際社会に復帰するにあたって、東南アジアなどに多額の補償金を払っていますから、国内向けの補償や援護なども累計したら、とんでもない金額になると思います。もう1つ、新しい戦争を防ぐためにはやはり、庶民がどれだけ酷い目にあうかということを伝え続けることが大事で、特攻隊も大学生などが行かされたわけですから、あんたたちの年齢のときに国の命令で、戦地に行かされたんだよという事実を伝えることが、急がば回れですけど、近道なのかなと思います。」